私は慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい
「高野悦子」自身になりたい
テレビ、新聞、週刊誌、雑誌、あらゆるものが慣らされる人間にしようとする
私は、自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、
歌をうたい、下手でも絵をかき、
泣いたり笑ったり、悲しんだりすることの出来る人間になりたい
(1月2日)

青春を失うと人間は死
だらだらと惰性で生きていることはない
三十歳になったら自殺を考えてみよう
だが、あと十年生きたとて何になるのか
今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとて
それが何なのか
(4月9日)

よく人は、私が変っているといいます
しかし私は、自分こそ正常な人間であると思っています
不正を憎み、何よりも正義を愛しているやさしい人間であります
今の社会が偏見と不正に充ちていて不正常なのです
(4月29日)

どうしてみんな生きているのか不思議です
そんなにみんなは強いのでしょうか
私が弱いだけなのでしょうか
でも自殺することは結局負けなのです
死ねば何もなくなるのです
死んだあとで、煙草を一服喫ってみたいといったところで、
それは不可能なことなのです
(4月29日)

ああ人間はくだらない、卑小だ
大ていの人間は、人間の人間たるを知らずして
社会の中に埋没してただ生きているのだ
自由! 私は何よりも自由を愛す
(4月29日)

生きることは苦しい
ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる
思考を停止させぬこと
つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない
私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる
(6月1日)

私の闘争は人間であること、人間をとりもどすというたたかいである
自由をかちとるという闘争なのである
人間を機械の部品にしている資本の論理に私はたたかいをいどむ
(6月9日)

ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか
そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている
ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている
(6月17日)

今や何ものも信じない
己れ自身もだ
この気持は、何ということはない
空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ
ものなのかどうかもわからぬ
何もないのだ
何も起らないのだ
独りである心強さも寂しさも感じないのだ
(6月22日)
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