あるとき、親鸞さまは、こう言われた。

 善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。
 しかし、世間の人びとは、そんなことは夢にも考えないし、言わないはずだ。
 「あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽往生するのはきまりきっていることではないか」
 こういうところが、世間一般の考えかただろう。
 そのことばは、なにげなく聞いていると、理屈にあっているように思われないでもない。だが、あらためて阿弥陀仏の深い約束の意味を考えてみると、仏の願いにまったく反していることがわかってくる。
 というのは、いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人びとは、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。
 だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心をあらためて、他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない。
 あらゆる煩悩にとりかこまれているこの身は、どんな修行によっても生死(しょうじ)の迷いからはなれることはできない。そのことをあわれに思ってたてられた誓いこそ、すべての悩める衆生を救うという阿弥陀仏の約束なのである。
 わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。
 山に獣を追い、海河に魚をとることを業(ごう)が深いという者がいるが、草木国土のいのちをうばう農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者は言うまでもない。すなわちこの世の生きる者はことごとく深い業をせおっている。
 わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。
 おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。
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