■こころの処方箋

 100%正しい忠告はまず役に立たない

ともかく正しいこと、しかも、100%正しいことを言うのが好きな人がいる。
非行少年に向かって、「非行をやめなさい」とか、
「シンナーを吸ってはいけません」とか、忠告する。
煙草を吸っている人には、「煙草は健康を害します」と言う。
何しろ、誰がいつどこで聞いても正しいことを言うので、
言われた方としては、「はい」と聞くか、
無茶苦茶でも言うより仕方がない。
後者の場合だとすぐに、「そんな無茶を言ってはいけません」と
やられるにきまっているから、まあ、黙って聞いている方が得策ということになる。

もちろん、正しいことを言ってはいけないなどということはない。
しかし、それはまず役に立たないことくらいは知っておくべきである。
(中略)

ひょっとすると失敗するかもしれぬ。
しかし、この際はこれだという決意をもってするから、忠告も生きてくる
己をかけることもなく、責任を取る気も無く、
100%正しいことを言うだけで、人の役に立とうとするのは虫がよすぎる。
そんな忠告によって人間がよくなるのだったら、
その100%正しい忠告を、まず自分自身に適用してみるとよい。
「もっと働きなさい」とか、「酒をやめよう」などと
自分に言ってみても、それほど効果があるものではないことは、すぐわかるだろう。
(中略)

100%正しい忠告は、まず役に立たないが、
ある時、ある人に役だった忠告が、100%正しいとは言い難いことも、もちろんである。
考えてみると当たり前のことだが、
ひとつの忠告が役立つと、人間は嬉しくなってそれを普遍的真理のように思いがちである。
(中略)

このようなことは、あんがいよく生じる。
これは、一回目のときには、相当に自分を賭けて言っているのに、
二回目になると、前のようにうまくやってやろうと思って、
慢心が生じたり、小手先のことになって、己を賭ける度合いが軽くなっているために、
うまくゆかないのである。
前と同じようにやろう、などと言っても、
考えてみると人生に「同じこと」などあるはずがないのだ。
もちろん、「昨日も七時に朝食を食べた、今日も同じように・・・」とういレベルでなら、
同じことは存在し、朝食のパンを毎朝正しく焼くことも可能であろう。

しかし、ある個人の存在が深くかかわってくるとき
そこには、同じことは起こらなくなってくるし、
まさにそのときに、その人にのみ通じる正しいことが要求され、
それは、一般に人が考えつく、100%正しいこととは、まったく内容を異にするのである。


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