ところが昭和48年も半ばを過ぎたある日、ふと考えると、この年は松下電器の創業55周年の年であり、自分も数え年80歳の年である。これは一つのよき区切りではないか。よし、ここで退任しよう、と急に思い立ったのである。そして同年7月19日、会長を退いて相談役になることを発表したのであった。
その間のいきさつについては、発表後、社内の中堅幹部以上の人に集まってもらい、退任のあいさつをしたときの話の中でふれているので少し引用してみよう。
「実は突然の発表というような感がありますが、私もかねがねいつか会長を辞任して、ということを考えはいたしておったものの、しからばいつ辞めたらいいだろうということについては、具体的に考えるまでには至っておらなかったんであります。しかし、ちょうど数えの80歳と言い、55周年と言い、この辺が一番適当な時期じゃないかということを実は考えたのであります。考えましたら、ちょうどそのときは、5月の決算案をもって株主総会に臨むときでありました。こういうことは総会後の重役会に発表することがだいたい世間の慣例になっておりますので、そのときを選ぶことが一番よかろうということで、急に決意をしたような次第であります。
そういうことで、前もって幹部の方に、また相談すべき人に相談をいたしまして、去就を決めるのが常識的かも知れませんが、そういうことができる時間はありませんでした。総会の3日前に、やはり辞めようと決意したような次第でございます。そういうことで、あと2日の間に在阪の常務取締役以上の方々に、1人1人お目にかかりまして、自分の決意を話しました。みなさんは“それはたいへん結構だ。ちょうどそういう時期が来ているからよろしいんじゃないか。あとのことは心配せんとそうしなさい”ということに、みなさんの意見がほとんど一致しておりましたので、私もたいへん結構だと、かように考えまして発表することにいたしたわけでございます」――。
そんなことで急な発表ではあったけれども、新聞は各紙とも非常に好意的に受け止めて、ある新聞では3カ所にもわけて報道されたし、外電にのって海外の新聞にまでも報道された。またテレビ局も取材に来たので応じたのだが、私の退任はいわば瞬時にして全国に知れわたることになったのである。
ところが、あとでそのテレビの報道を自分で見たが、それを見て私は驚いた。話す声といい、顔かたちといい、今にも倒れそうなヨロヨロの姿ではないか。自分では分からなかったが、ここまで自分は衰えていたのか、こんな姿で勤務していたのか、と辞めてよかったとつくづく感じたのである。
思えば、私が今日までこうしてやってこられたのも、世間からいろいろのことを教えられてやってきたからである。そのことを静かに考えてみて、私は創業会長として次代の人たちに“社会のすべての人々を師表と仰ぎ、大事なお得意と考え、常に礼節を重んじ、謙虚な態度で接すること”を強く要望したのである。
こうして、会長をやめて何か肩の重荷がとれたというのか、私の健康はその後しだいに回復してきた。そして退任後、半年もたたないうちに、あの石油ショックが襲ってきて、日本全体が、かつてない大混乱に陥ってしまった。
私はこの惨状を目のあたりにして、これではいかん、このままでは日本はつぶれてしまう、松下電器の会長としての私の役目は終わったが、これからは一国民として、日本のために何かをやらねばならん、このままではいかんのだ、という思いがフツフツとしてわくのを覚えた。日本全体が戦後30年の大きなフシに直面したのである。
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