(引用開始)
実際に日本文化の水準は、ヨーロッパ文化の水準よりも高かったと思います。高かったけれども、大きな欠点が一つあった。その大きな欠点はキリスト教がなかったということです。それで「文化の程度がヨーロッパより非常に高い」「文化のかなめとしてのキリスト教がない」の二つを合わせると、ヨーロッパと同じ程度になるとザビエルは思ったんじゃないか。このように私は解釈したいと思います。
(引用終わり)


(引用開始)
 宣教師たちは多くの点で当時のヨーロッパより優れていた生活様式についても学びました。ある宣教師は故国に送ったかずかずの手紙で、ほとんど毎回、日本の家がきわめて清潔なことについて書いていますが、つまり、それは間接的に、ヨーロッパではふつう家や人々がいかに不潔だったかを物語っています。次のように書いた者もいました。「一日に入浴する頻度という点で、日本人は他のどの国民にも優っていると思われるが……さらにいっそう優れているのは、入浴するときの清潔さと品位であり、浴場を建てる場合は、もっとも貴重な薬効のある木材を用いる。」

 ヨーロッパ人は食卓の作法にもびっくりしました。日本人は「箸と呼ばれる日本の小さな棒を使って、しかも、それを巧に操って清潔に食べ、素手で食物に触ったり、食べかすを皿から食卓にこぼしたりはしない。」また、ある宣教師によれば、彼と同僚たちが食事を振る舞われたとき、「目の前に並べられた食べ物を片端から我々の流儀で食べ始めたら、手掴みで食べるそんなやり方を目にした彼女たちが笑いころげた。それはこの世のいかなる喜劇にも増して王と女王を喜ばせた。」日本の部屋は汚れひとつないので、どこに唾を吐いたらいいかわからない、と不平を言った宣教師もいました。

 当時はまだフォークが発明されていなかったので、ヨーロッパ人は貴族といえども手づかみで食べていましたし、ナイフで骨から肉を切り取ると、骨は犬に与えたり、床に投げ捨てられたりしたので、食堂の床には、骨や食べ残した食べ物を隠すために、わざわざ葦(あし)が撒き散らされてあったのです。

 宣教師たちは概して日本食を好みませんでしたが、作法には一目置いていました。「食べ物は薦められない。その点では、日本はもっとも不毛な土地である。しかし、作法、秩序、清潔さ、用具については、私には世界中で日本ほど優れた国があるとは思えない。」
(引用終わり)


(引用開始)
イタリアでは、14世紀によく使われるようになり、1600年頃までには商人や上流階級の間でごく一般的に使用されるようになった。一方、南欧以外のヨーロッパでは、フォークがなかなか浸透しなかった。英語の文献に初登場するのは、1611年のトーマス・コライヤットのイタリア寄航文(1611年)だと見られている。しかしながら長年にわたって女々しいイタリア文化への偏愛とみなされていたようである。英国において一般人がフォークを使うようになるのは、18世紀に入ってからである。現代において一般的な弓なり型のフォークは、18世紀中頃にドイツで発明された。そして4本歯のフォークが一般的に使われるようになるのは19世紀初頭である。
(引用終わり)


(引用開始)
ヴェルサイユ宮殿では、当初トイレとして独立した部屋がなく、ルイ14世の時代には274個の椅子式便器があった。しかし、宮殿には常時4000人もの人が生活していたので、274個ではあまりに少なかった。そこで近くに便器がない時廷臣たちは、廊下や部屋の隅、庭の茂みで用を足した。貴婦人たちの傘のように開いたスカートは、このために考案されたといわれている。清潔好きの者は、陶製の携帯用便器を使っていたそうだが、中身は従者が庭に捨ててしまっていた事に加え、宮殿内の便器の中身も庭に捨てていたため、ヴェルサイユ宮殿は中庭や通路、回廊など糞尿であふれ、ものすごい悪臭だったそうだ。

 また、当時の紳士淑女の服は月1回洗濯できれば良い方で、服にカビが生えているのは当たり前だった。お風呂やシャワーも全く利用しなかったため、体臭など臭いをごまかすため、香水を大量にふりかけていた。ヨーロッパではこういう背景から香水が発達していったそうだ。
(引用終わり)

Wikipedia(スカートの記事)にもこのように書かれています。

(引用開始)
フープスカート(パニエスカート)

鯨の髭やプラスチックなどでできた張り骨で傘のように大きく広げたスカート。一般にロングスカートであり、ドレスの一部をなすことが多い。衛生的な便所が完成する以前の中世の欧州では、上流階級の女性は一般的にフープスカートを着用したまま立位で排尿していた。なお、このため当時は下腹部に密着する下着(パンティーなど)が着用される習慣はなかった。
(引用終わり)

スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』で出てくるような貴婦人のスカートは、立ったまま小便をするためのものだったということです。

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このようなヨーロッパ人に比べると、日本はたいへん清潔な国だったでしょう。

その上、出島貿易でヨーロッパにもたらされた品々、例えば中国よりも優れた陶器・磁器、日本刀、絵画、漆器、蒔絵、扇子なども高く評価されていた、と。


しかし、その後、二つの理由でヨーロッパ人はそんな優れた日本文化を正しく評価できなくなった、と記されています。

そのひとつは、日本人がヨーロッパの社交的な生活もできる国民であると示そうとした「鹿鳴館時代」のために、かえって日本は「サル真似の国」と評価されたこと。

もうひとつは、「日本は神秘な国だ」との伝説。1985年ローウェルという人が『オカルト・ジャパン(神秘な日本)』という本を書き、日本人自身も自らを神秘な国民であり外国人には理解できないと思うようになったことだと。

そしてキーン氏は、(1992年現在、)日本文化がまだ十分に世界に知られていないので、「このすばらしい日本文化をもっと世界に広めたいという望みを私は持っていますし、これからも努力を惜しまないつもりです。」と富山での講演を締めくくっています。

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