ポストモダンの現代思想は、万人に普遍的に通用する『絶対的な価値・真理・正義』の存在を否定する『相対化の思想』であると言われることがあるが、相対主義の考え方自体は、価値観の多様性や個性の尊重が言われる現代社会では極めてスタンダードな考え方の一つとなっている。

 しかし、現代社会においても全ての価値観が相対化されたわけではないし、また相対化してはならない人倫の根本や人類の存続に関係する価値観というものもある。無差別殺人を行って社会革命を起こそうとするカルト宗教やテロリストの倫理観は、決してカルト宗教外部の人間集団からは承認されないし、貨幣や財物に関する所有権を全否定して窃盗・強盗を正当化するような価値観も社会から排除されるだろう。価値観の多様性の承認に対して人間は可及的に寛容であるべきだが、『他者の権利を侵害する価値観・社会秩序を破壊する価値観』については、それを心の中で考える内面の自由はあっても、それを行動に移せば規制や制裁を受けることになる。

 国家権力や宗教権威が市民生活に与える影響の大きかった時代・地域に生きた人々は、多くの場合、価値観の相対化や思想信条など個性の表現は、大幅に制限されていて自分の主張や考えを自由に述べることが出来なかった。第二次世界大戦終結以前の日本では、皇国史観に基づく軍国主義や父親の絶対権威を承認する家父長制の価値観に反対することが難しかった。

 今でも、イスラム社会において男女同権思想に基づく政治思想を主張することは難しいし、イスラム教のクルアーン(コーラン)に書かれた真理の言葉を批判することは不可能である。セクシャリティに関しても、性行為の対象として異性を選ぶヘテロ・セクシャル(異性愛)の形態が標準とされていて、男と男、女と女が性行為をするホモ・セクシャル(同性愛)には根強い偏見や差別が残っている。

 ミシェル・フーコー(Michel Foucault,1926-1984)は、古代ギリシアから近代ヨーロッパ社会まで膨大な歴史資料を調査して丁寧な歴史検証を行った構造主義の社会思想家である。フーコーは、自分自身がホモ・セクシャルの同性愛者であったこともあり、人間社会とセクシャリティ(性関連事象)の歴史的変遷に関心を持って、権力・性的快楽・性の道徳規範の関係を歴史資料を元に論証した大著『性の歴史』を書き上げた。

 キリスト教が世界宗教となる以前のギリシアやオリエントの古代社会では、ホモ・セクシャリティの性行動や少年愛は貴族階級の一般的な性愛として社会的に承認されていた。何故、キリスト教倫理が支配的となる中世社会で、同性愛者は罪深い神の冒涜者とされ性倒錯者として排除されたのか、何故、産業文明が発達する近代社会で、ホモ・セクシャリティは蔑視や差別の対象になってしまったのかを『知の考古学(アルケオロジー)』の観点からフーコーは精緻に理論化する。知の考古学とは、『価値判断と関係する社会事象』の各時代の文献資料を調査する通時的研究である。人間社会の規範や真理の時間的変化を求める研究を通して、その生成変化の一般構造を明らかにしようというものである。
 時の権力は、民衆の性の快楽を一方的に抑圧するのではなく、多種多様なセクシャリティの言説を生成しながら、共同体(権力が統制する人間集団)の存続や発展に貢献するセクシャリティの価値規範を民衆に内在化するのである。ホモ・セクシャリティが産業革命以後の近代文明社会で、性倒錯の一種となり差別・偏見の対象となりやすかったのは、同性愛のセクシャリティが産業社会の存続発展や人口の増加(生殖行為)に貢献しなかったからだと考えることが出来る。また、同性同士が愛し合うという性愛関係のあり方が、父・母・子より構成される近代家族制度の秩序を混乱させるものであったことも一つの解釈として提示することが出来るだろう。

 『絶対的な真理』を否定したミシェル・フーコーは、社会と民衆に偏在する権力の構造と権力を生み出す知の作用によって、歴史的に、絶対的と解釈される真理が形成されると考えた。絶対的な価値や真理は、歴史的過程を踏まえない所与として人間社会に与えられているものではなく、権力と理性の相関関係によって自律的に形成し発展するものである。既存の社会集団の存続・維持・発展を無意識的に図ろうとする『権力=知』の特権的な作用によって、『人間・歴史・社会・倫理』というパラダイムが形成され、大多数の民衆の内面に何が正しくて何が間違っているのかという真偽判断や価値規範の基準を打ち立てていくのである。

 社会一般において支配的な価値観の多くは、大多数の人々が支持してその価値観に違背する者に懲罰・蔑視・排除というペナルティを与える『数の論理』に支えられている。しかし、一人一人が、その価値観を支持することで実際的な利益が得られるかどうかが、『社会で支配的な価値観形成』の直接的な原因になっていることは少ない。『権力機構(法律・教育・監獄・病院)と民衆社会の相関関係』『権力構造の源泉となる理性(非理性的なものを排除する作用)』によって、その時代の中心的価値観が人々に規範意識として内面化されるのである。

 『中心的価値観から逸脱する異質性の排除』という社会システムが持つ権力作用は、病気・健康を分別する臨床医学の誕生や精神の異常性を診断された精神病患者の歴史とも深く関係している。ミシェル・フーコーは、知のアルケオロジーの研究成果として『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』という著作を著している。
 自由主義と相性の良い相対主義の影響を強く受けている先進国の現代社会においても、常識的価値観を示すとされる社会通念、正しいとされる勧善懲悪の正義、正常であるとされる精神機能、守るべきであるとされる倫理規範、一般的であるとされるセクシャリティ(性的指向・性的嗜好)などは依然として存在している。しかし、冷静にそれらの価値判断の根拠を考えると、そこには、客観的で実証的な疑いの余地のない根拠は存在しないことが多い。実際的な権利関係や利害得失が生じるケースを除いて、ただ事象や問題をどのように解釈するのかという個別的で曖昧な差異があるだけなのである。  

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