すなわち、ひとは情念(情熱)の悪い面ばかりを見て、むやみに情念を排斥する。しかし情念は、一方であらゆる苦悩の源であるだけでなく、同時に他方では、あらゆる喜びの源泉でもある。偉大な情念によってはじめて、人間の魂は偉大なものごとに到達しうるのだ。これに反して控え目な感情は凡庸な人間をつくり、弱々しい感情は最もすぐれた人間をも台なしにしてしまう。「控え目にばかりしていると、自然の偉大さとエネルギーが失われる。樹木を見るがいい。豊かに葉を繁らせているそのおかげで、諸君たちは爽やかに拡がった木陰をうることができ、冬がやってきてその繁った葉がなくなるまで木陰を愉しむことができる。およそ誰でも、小心翼々として生き、気持ちが老いこんでしまうと、もはや詩作にも絵画にも音楽にも、すぐれた仕事ができなくなるのだ。」もっともディドロは、このような主張の前提として、「感情のうちに正しい調和が確立されている限りのことだが」と述べることを忘れてはいない。 (前半部:中村雄二郎執筆)
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