2014年11月17日 日経ビジネス

 5歳までの教育が、人の一生を左右する――。労働に関する計量分析手法を発展させた実績で2000年にノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマン米シカゴ大学経済学部特別教授はそう指摘し、近年、教育政策の分析に力を入れている。少子化に伴い、未就学児の幼児教育から受験まで、教育産業の囲い込み競争が過熱する日本。このほど来日し、「格差是正のためには、幼少期の子供とその親に対して働きかけをすることが大切だ」などと主張するヘックマン教授に、幼少期における教育のあり方と意味などについて聞いた。(聞き手は広野彩子)

人生でその人なりの成功を収めるうえで、「ケーパビリティー」を高めることの重要性を指摘されています。このケーパビリティーとは、やはりノーベル賞を受賞した経済学者アマルティア・セン米ハーバード大学教授が定義した「潜在能力」のことでしょうか。

ジェームズ・J・ヘックマン(James Joseph Heckman)氏
米シカゴ大学経済学部特別教授。1944年、米イリノイ州シカゴ生まれ。65年、コロラド・カレッジを優等の成績で卒業、数学の学位を取得。68年、米プリンストン大学から経済学修士号、71年に同Ph.D.(経済学)を取得。ニューヨーク大学、コロンビア大学などを経て77年からシカゴ大学経済学部教授。2000年、人が働こうとする時の意思決定など社会的なテーマに関する計量経済学的な分析を発展させたことにより、ノーベル経済学賞を共同受賞。格差に関係する社会・経済的な諸問題の根源に関する研究をライフワークとしてきた。
(写真:陶山勉)

ヘックマン:そうです。ケーパビリティー、すなわち「潜在能力」は、人生の様々な局面で自ら行動を起こしていく時に必要な、様々な能力を指します。言い換えると、人が社会の構造の中で効果的に「機能」を果たしていける能力ですね。我々が「知性」という時には、特定のタスクを継続できる能力も含みますが、それも重要な潜在能力の1つです。例えば発明家トーマス・エジソンは「天才は1%の才能と99%の努力だ」と言いましたが、タスクを継続する能力は、その「努力」に当たる部分です。(タスク継続につながる)忍耐強さや自己抑制力、良心は重要な潜在能力です。

人生を決定づけるのは「潜在能力」

 潜在能力は、IQ(知能指数)で測れるわけではありません。潜在能力は、(経済力など)資源の制約、情報量と社会的な期待、両親の情報と期待、そして本人の選好、という4つの要因から影響を受ける「非認知スキル」です。

ではIQは何を測っているのでしょうか。

ヘックマン:知能の一部を測り、抽象的な問題を解く能力を示します。IQを高めたければ、乳幼児期の働きかけが重要です。これまでの研究で、IQは人生の初期にかなり決まってしまうことを示しているからです。30歳の人のIQを変えるのは極めて難しいですが、生後3カ月からであれば変えることができます。
 1972年に米国で実施されたアベセダリアン・プロジェクトという、平均生後4.4カ月のアフリカ系アメリカ人の貧しく家庭に問題を抱えた子供約100人を対象にした研究がありました。子供たちを2つのグループに分け、一方には教育活動をせず、一方のグループだけに最新の教育理論に基づいた、ゲーム形式の継続的な教育的な介入を施しました。このグループは5歳まで週に5日、保育施設で一緒に介入を受けました。健康管理や行政サービスは、教育を受けないグループも同じように受けました。

 幼児期にこうした教育的介入をした人たちの追跡調査を続けて分かったことは、幼少期にきちんと教育的な介入を受けていれば、30代になった時のIQが平均してより高くなり、その後も高いままであり続けるということでした。さらに重要なのは、影響がIQだけではなかったことです。より学校の出席率や大学進学率が高く、スキルの必要な仕事に就いている比率も高く、一方、10代で親になっている比率が低かった。犯罪行為に手を染める比率も減りました。

つまりIQだけでなく、潜在能力も高めていたと。

IQを高められるのは幼児期だけ

ヘックマン:20代で集中的な教育を施しても、幼児期ほどIQを高めることはできません。とはいえ問題に真剣に取り組む力や周囲とうまくやっていくスキル、1つのことを続けられる持続力などの潜在能力は高められるかもしれません。

 IQが示すようなテストを解く能力は、人生の諸問題を解決する能力と同じではありません。現実に直面する試練は、多くの異なる特徴を合わせ持っているからです。だからこそそこで、IQでは測れない忍耐強さや自己抑制力、良心が重要な役割を果たすのです。高いIQが必ずしも高次元の人生をもたらすわけではなく、一番重要なのは「良心」だと私は思います。コンサルティングの仕事を辞めてニューヨークの公立学校で数学を教えた心理学者のアンジェラ・リー・ダックワース氏はこうした力をグリット(grit、やり抜く力)と呼びました。人生において重要な特性だと思います。

5歳までの環境で育て得る特性とは、どのようなものですか。

ヘックマン:先ほども研究についてご紹介したように、人生の最初の数年はとても重要な役割を果たします。幼児期の適切な教育は、潜在能力の基盤を広げるのです。誰もが万能だとは決して申し上げませんが、モーツアルトのような大変な能力を秘めた人もいるわけです。モーツアルトは、常人とは違う形で音楽を理解していました。モーツアルトまではいかなくても、事実としてとりわけ若者にはこうした「可能性の富」があるわけです。その人が望み、実現し得る最高の機会を(社会が)きちんと与えることができないだろうか。それが私の追求している問いなのです。
 脳の前頭前皮質は、成熟するのが大変遅いのです。前頭前皮質は行動を制御し、意思決定をつかさどる部分です。青少年はここが未成熟でかつ情報不足だから、分別を持った意思決定ができないのです。一方で発達が遅いゆえに変化の途上にあることから、(青少年に対して)何らかの働きかけをして変化を促すことも可能で、これは今後私が研究を進めていこうと思っているテーマでもあります。

ヘックマン教授ご自身はどのような実験をしたのですか。

ヘックマン:子供に課題を与えて、毎日来させて、計画・実行させ、最後に仲間と一緒に復習をさせる実験をしました。1日2、3時間、小学生に対して2年間毎日実施しました。追跡調査の結果、この経験がその後の人生において大きなスキル向上につながっていたことが分かりました。ということは、課題を与えて、計画して実行し、友達と一緒に復習することを親がきちんと教えられれば、親と子の関係や付き合い方すらも変わるかもしれませんね。親は大体20代まで子供のそばにい続ける存在ですから、与える影響が大きいです。親も意識を変える必要もあります。

質の良い保育所の整備が社会に安定をもたらす

日本では共働きが増えており、子供たちに毎日しっかり働きかけをするのが時間的に困難な場合もあります。どうすればよいでしょうか。

ヘックマン:親自身が働いていたりして思うように時間を割けなければ、できる限り時間を割きながらも、部分的に何らかの「助っ人」を頼んで、時間不足を補えばいいのです。かえって親の力量では与えられないような刺激を与えることにもなり、それは本人にも、社会にも良いことでしょう。お金は根本的な問題ではありません。子供と向き合わず孤立させるような育て方をしたために、育児に失敗したお金持ちの親は大勢います。

 ご紹介した実験のように、幼児期の丁寧な教育によって、犯罪を減らし、その子たちの人生を前向きにする可能性があります。よりスキルアップした彼らの稼いだお金は、税収になって将来政府に戻ってきます。またこれまでご紹介したような教育効果により、自分の健康にもより気を付けるようになるので、医療費を削減することにつながり、自己抑制する力や良心を育て、社会に安定をもたらします。

 日本政府だけでなく、世界中の国で、幼児期の保育を担う保育所の質を高めることが今後の社会のためにも大変重要ですね。幼児教育は経済成長を促進するだけでなく、回り回って政府の負担も軽減することになるわけですから。

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