2015年1月19日 日経新聞

 スコットランドでは6月も終わりに近づくと、いたるところから、バッグ・パイプの音が聞こえてくる。タータンチェックのスカートをはいて、バック・パイプ行進のわざを競い合う夏の大会にそなえるためである。これが、日本の盆踊りのように各地で行なわれるのである。私はそのバッグ・パイプの音色とリタ、ルーシーの2人の女性にかこまれて、楽しい旅行を続けた。インバネスを通り、恐竜で有名なネス湖のオーガスタス砦(とりで)、アーサー城などに立ち寄りながら、南に下った。

 2人がお互いの気持ちを確かめ合ったのは、このハイランド旅行も終わりに近く、ローモンド湖に来たときのことであった。私がプロポーズをすると、リタは即座に受けた。

 大正9年(1920年)の夏、私は再びぶどう酒の勉強のためフランスに渡った。その間にリタの父親がなくなった。リタの父は、医は仁なりを主義としていた人で、どんな真夜中でも、いやがらずに自分で車を運転して診察に出かけていった。そのため町の人たちからは、慈父のように慕われていたが、そんな過労が重なり合って倒れ、そのまま急逝(きゅうせい)したのであった。

 リタと私の結婚には、親日家の父が許してくれるだろうという計算があったが、2人が結婚の決意を知らせる前に、父は死んでしまったのである。リタと私の悲しみと落胆は大きかった。

 さて、1カ月余りのフランス滞在を終えて、グラスゴーに帰ると、ウィリアム博士から呼び出された。

 「キャンベルタウンの蒸留所に、親友のイネー博士がいる。君のことを話すと技師として迎えてもよいといっている。イネー博士は、日本酒をつくるこうじに大変興味をもっているようだ」といわれた。

 イネー博士はウイスキー界の権威者の一人であり、ブレンダーとしてもその名が知られている人である。私は一も二もなくウィリアム博士の好意に従い、イネー博士のもとに行くことになった。

 イネー博士のいるキャンベルタウンはグラスゴーの西南、キンタイヤー半島の先端にある人口7000ほどの町で、ウイスキーの蒸留と漁業が盛んであり、15、6の蒸留所がこの小さな町にひしめいていた。そのキャンベルタウンに行くため、私はグラスゴーの港から、遊覧船のような船でクライド湾をくだった。アラン島やキンタイヤー半島の風景は、故郷の瀬戸内海にそっくりの美しさで、郷愁にかられるのをいかんともしがたかった。
 イネー博士には、日本から種こうじを取り寄せ、カンサス米を使ってこうじをつくってお見せした。麦芽ではなく、こうじをつかって糖化作用を行い酒をつくる方法には、イネー博士も科学的興味をもたれたらしく、大変喜んでいただけた。そのうえ博士は、学問的な話し相手ができたといって、なにごとにつけても「タケツル、どう思う」と私の意見をきかれた。

 キャンベルタウンのモルトはグレーンウイスキーとブレンドするのに重すぎるといって、ブレンダー仲間からやや敬遠され始めた時期であった。そこで、イネー博士の仕事は、ブレンドに向くモルトをつくることであった。こうした理由から研究室には、各地のモルトやグレーンウイスキーが集められており、博士はモルトとグレーンのブレンドに寝食を忘れておられた。

 私はここで、ローゼスで受けた職人的指導とは反対の、学問的な指導とブレンドの訓練を徹底して受けた。私のそれまでの体験的な勉強を、学問的、体系的に整理できたのも、約6カ月、イネー博士に学んだおかげであった。ウイスキーづくりの自信ができ、道が見えてきた感じがしたのもこのころであった。

 イネー博士がキャンベルタウンの原酒を改良するために、献身されたにもかかわらず、ここは次第に衰退していった。戦後、私が再びたずねたときは昔の面影はなく、蒸留所は二つしかない有様であった。イネー博士の力でもどうにもならなかった自然とウイスキーの葛藤(かっとう)の結末を見る思いであった。

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