2015年2月26日 日経新聞

 昭和9年(1934年)から11年(1936年)にかけては、天皇機関説の問題化や二・二六事件など世相も戦争拡大の方向に激しく動いていたが、工場をつくった北海道余市の町でも大きな異変が起こっていた。

 ニシンの千石場所として大漁を誇っていた余市に、ニシンがばったり来なくなったのである。ニシンの大群が押し寄せたときの光景は、目撃したもののほかは、まず理解できないであろう。産卵期のニシンは、白子で海一面を真っ白にしながら、群れをなして波打ちぎわに押し寄せる。先頭のニシンは、続くニシンに押されて引き返すことができず、つぎつぎと海岸に飛び上がり、銀色のウロコをキラキラさせながら砂の上で乱舞を続けるのである。

 このときは、漁師が活躍するのはもちろんであるが、町の人も総出で海岸に集まり、バケツでニシンをすくい上げる。私がこれを、昭和9年余市で見たのが最初で最後になったのである。そして千石場所といわれた余市から、ニシン景気は去っていった。

 ニッカの北海道余市工場で、会館と呼んで集会所に使っている建物は、むかし殷賑(いんしん)をきわめた網元たちが、競ってつくったニシン御殿だった。ニシン景気の去っていったあとニッカが譲りうけ海岸からそのまま建て移したものである。

 幸い、仕込んだ原酒は四季の移り香をじっくり呼吸しながら順調に育ってくれていた。先に出したリンゴジュースの売れ行きが悪くても、貯蔵庫にはいってウイスキーの熟成を見ていると身も心も静まりかえる感じであった。

 昭和12年(1937年)10月に売り出したアップル・ゼリー、グレープ・ゼリーは、アップル・ソースとともにウイスキーへのつなぎの商品であった。その翌年に出したアップル・ワインはニッカ独特の製品で、今でもニッカの製品群の一つとなっている。

 昭和15年(1940年)の秋、ぎざぎざの線のはいった角びん、ニッカウ井スキーの第1号を発売した。ニッカという商品名は、当時の社名の大日本果汁の略、日果からとったものである。

 ニッカの3文字を採用したのは、横書きにしても片方からしか読めないことと、3文字は語呂(ごろ)もいいしネオンの場合でもスペースが少なくてもすむし、一定スペースの場合は大きく書けるという利点があるということで決めた。
 北海道でつくった初めてのウイスキーも原酒が若いため、ブレンドには苦心があった。しかし独立後、初めて世に問う作品として、会心とはいえないが、私にはやはり感激であった。

 ニッカの第1号が世に出た2カ月後に、価格統制の時代がやって来た。そしてウイスキーは1級、2級、3級(現在の特級、1級、2級)に分けられた。ニッカはサントリー、トミーとともに商工省、大蔵省の共同告知によって1級ウイスキーの指定銘柄品として公示された。そして統制時代にはいるとともに、余市工場は海軍の指定工場になり、原料の大麦の配給を受けて貯蔵量は次第にふえていった。

 工場の敷地の中に、周囲を沼でかこまれた島があった。貯蔵庫はこの島につくった。そのうえ、貯蔵庫と貯蔵庫の間を離して万一の災害に備えた。また各年代の原酒を均等に各貯蔵庫に分けて入れ、もし一つの倉に事故があっても、各年代ものの途絶えることのないよう配慮した。原酒だけがウイスキー会社の生命なのである。

 この沼には、冬になると白鷺(しらさぎ)が2羽かならずやって来ていた。余市の人は“ニッカ沼”といつしか呼ぶようになった。戦争は拡大から次第に絶望的局面に進んで、町からも多くの戦死者を出した。原酒は、悲劇の歴史のなかを静かに行き続けたともいえよう。

 終戦。原酒は古いもので約10年、十分に熟成し、よいウイスキーのできる下地ができた。しかし、戦後数年間は本格ウイスキーを要求する時代ではなく、また出してもメーカー側に引き合わない時代が続いた。イミテーションならまだしも、カストリやバクダンといわれる危険な密造酒が横行した。

 それだけに、本格ウイスキーは貴重品でもあった。

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