2015年3月5日 日経新聞

 昭和27年(1952年)8月、ウイスキーを売る会社が、大日本果汁株式会社でもあるまいということからニッカウヰスキー株式会社と社名を変えた。また同じ年に、東京・麻布の毛利さんの屋敷あとにびん詰めする東京工場を建てた。

 昭和28年(1953年)3月1日、ウイスキーの今までの分け方、1級、2級、3級がそれぞれ特級、1級、2級と呼ばれるようになったが、そのころから日本のウイスキー業界は2級ウイスキーを中心に伸びを示し始めた。昭和29年(1954年)は洋酒各社の販売戦が行なわれた年で、ウイスキーの消費量は激増したが、一方トミーを出していた東京醸造のように経営不振に陥ったところも出てきた。

 しかし、ニッカはこのときのウイスキーの伸びという波に十分には乗りきれなかった。それはびんの容量が少なく値段が高いことがハンディになっていたからである。そこで他社なみの容量と値段のウイスキーを出す必要性を痛感、丸びん(通称ニッキー)を発売した。当時ニッカの売り上げは北海道6、内地4の割合だったが、これが丸びんニッキーの発売で一挙に逆転、全国商品にのし上がった。

 昭和29年に入社してもらった弥谷副社長の説明によると、500ミリリットル350円で売っているものを、他社なみに640ミリリットル350円で売ると、1本当たり3割の欠損になる。しかし、これで1年もちこたえれば87パーセント伸び、欠損は黒字に転化する。どうしても一度は“デッドポイント”を通過しなければ積極的な市場がもちえないという主張であった。

 いろいろな角度から検討を重ねてこの方針を決め、丸びんの発売をしたのは昭和31年(1956年)9月1日であった。幸いこの政策は予想以上の好結果となり、ウイスキーの販売金額は昭和29年(酒造年度)を100とすると34年(1959年)は534になり、ニッカの基礎をかためたのである。

 昭和30年(1955年)11月、古い原酒を生かしたウイスキーとしてゴールドニッカを2000円で発売し、その翌年、ブラックニッカを1500円で出した。

 このころは、戦後第1回の洋酒ブームでもあった。都市の盛り場には雨後のたけのこのようにトリス、ニッカ、オーシャンなどの名をつけたいわゆる“軽”バーが数を増していた。そしてここに若い人たちが集まり、ウイスキーに親しんだわけである。当時の2級ウイスキーは、原酒の混合量が5パーセントまでの日本独特のもので、私の考えるウイスキーとは遠いものであったが、消費革命、経済成長が進みながらも、生活レベルの貧しさからの需要であったと思う。しかし、2級ウイスキーの浸透が、さらによい品質のものを要求する次の時代へのステップになったことは間違いあるまい。

 第1回の洋酒ブームがやや下火となって伸びが鈍化したのは、昭和35年(1960年)以降であった。この年にウイスキー業界は原酒の混和率を引き上げることによって2級ウイスキーの品質を向上させたいと大蔵省に要望した。

 これがいれられ、原酒の混和率が引き上げられたのは昭和37年(1962年)4月1日からだった。2級ウイスキーは5パーセント未満より10パーセント未満に、5パーセント以上の一級は10パーセント以上20パーセントまでとなった。

 しかしこの改正でも原酒は0パーセントでもウイスキーとして出せるという点は是正されなかった。その点に大きな不満を感じながらも、すこしずつ私の理想に近づいてはいた。もし日本のウイスキーに級別がなかったら、日本のウイスキー業界はもっともっと進歩していたと思っている。

 昭和34、5年ごろから日本のウイスキー業界は積極的な設備投資の時代にはいった。ニッカは34年に関西の拠点として西宮に近代設備のびん詰め工場、35年に弘前工場、さらに40年(1965年)には九州鳥栖の九州工場をつくった。しかしそれと同時にウイスキーそのものの品質向上についても私たちは秘策を練っていた。

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