2015年3月12日 日経新聞

 私のことを「恵まれた星のもとに、ウイスキーだけに生きてきた幸運な男」という人がいる。「あの男からウイスキーをとったら何もなくなる」「あいつはウイスキーばかだ」といわれたこともあった。

 「あなたは先見の明があった」という人もいるが、ウイスキーがこんなに飲まれる時代が来るなどとは実は夢にも考えたことはなかった。嗜好(しこう)の変遷に私はただただ驚いているだけである。日本で初めてモルトウイスキーをつくって売り出したころ、こんなこげくさいものが飲めるか、ときらわれていたのが昨日のことのようでもある。

 しかし、考えてみると“幸運な男”から“ばか”まで、それぞれの批評が私の場合はみな思い当たる。ウイスキーという、科学だけでは解明しきれない、ある意味で魔性のようなものに自分がとりつかれて、自然の神秘のような力と、人間の力のあいだをさまよい続けてきたのではないかと思うこともある。

 世の中の学問も技術も進歩を続けているのに、約半世紀前の勉強がそのまま役立つのがウイスキーづくりの世界である。

 ウイスキーの熟成を科学の力で早める試みは昔からあったが、すべて失敗している。自然と時だけがその解決者なのである。またスコットランドに昔から伝わっている製造法が今でもよいウイスキーをつくる唯一つの道なのである。カフェ式蒸留機を導入してカフェグレーンをつくることにしたのもそのためである。その後に残った最後の問題は、原酒工場を複数化することであった。

 ウイスキーは微妙なもので、同じ技師が同じ機械、同じ原料を使っても別の場所でつくると全く違うものができる。これらを合わせてブレンドすると、さらによいものができるので、スコットランドでは全部このやり方がとられている。

 その理想に近づけるために、私は仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりにぴったりの土地を見つけた。今そこに北海道工場より規模の大きい原酒の第二工場を建設している。来春(昭和44年=1969年春)より稼働する予定であるが、これが完成すればスコットランドからの技術導入はいちおう全部実現することになるのである。

 日本の本格ウイスキーの歴史は、まだ半世紀に満たず、三百数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質的、技術的には比肩できるところまで来ていると思う。それは驚くような進み方である。

 また日本のウイスキーの進歩を大きくはばんでいた税制もどんどん改正されている。やがて級別がなくなり、イギリスのように輸出品と国内酒の区別ぐらいしかなくなる日も来るであろう。

 昭和9年(1934年)、北海道でうぶ声をあげて苦難の道を歩いてきたニッカも、ウイスキー専門の会社としてどうやらというところまで成長してきた。

 北海道の原酒工場に引き続く仙台の原酒工場(建設中)のほかに、東京の麻布と千葉県柏市、西宮、弘前、それに九州の鳥栖にそれぞれ製品工場をもち、売り上げも200億円(年間)を越えるようになった。輸出は量はまだ少ないが、アメリカをはじめ28カ国に出している。

 急ピッチでよくなっている日本のウイスキーのすう勢から見て、世界の各国で、スコッチと日本のウイスキーが四つに組む時代はそう遠くはあるまい。また戦前までウイスキーは日本人になじみの薄い酒であった。ところが今は家庭で広い世代にのまれる酒になった。さらに、ビールとともに世界各国の人がウイスキーになじみ、“世界の酒”になってきた。これもこんどの戦争のあと起こった現象である。

 私を“幸福な男”という人たちは、これらのことを全部総合した感じでいわれていると思うが、ウイスキーづくりに専念して生きてこられたのは、ほんとうに恵まれていた人生だったというのが実感である。

 私がウイスキー一途とはいっても、酒はウイスキー以外は飲まないかというとそんなことはない。ノドがかわいているときのビールはうまいし、日本料理のときは日本酒をのむ。今の流行語でいうT・P・O(時・所・場合)で飲み分け、楽しむのが“酒”だと思っている。

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