★ これは以前載せた記事であるが、教養というものがいかに大事かを分かりやすく説明したものであるの
  で、ここに再録する。
最先端の理工系の大学だからこそ、教養(リベラルアーツ)の重要性に気付いた
     という逆説。今回は全文を公開します。

   

米国トップ大学の教養教育事情 MIT編その2


2013年3月14日(木)  日経新聞

上田 紀行(うえだ・のりゆき)

文化人類学者、医学博士。1958年東京生まれ。東京大学大学院博士課程修了。愛媛大学助教授(93~96年)などを経て、2012年2月より東京工業大学リベラルアーツセンター教授。2005年の渡米時にはスタンフォード大学仏教学研究所フェローとして、「今の仏教は現代的問いに答え得るか」と題した講義(全20回)を行った。講義にディスカッションやワークショップ形式を取り入れるなどの試みを行っており、学生による授業評価が全学1200人の教員中第1位となり、「東工大教育賞・最優秀賞」(ベスト・ティーチャー・アワード)を学長より授与された。著書に、2006年の大学入試で出典数1位となった『
生きる意味』(岩波新書)、『目覚めよ仏教!-ダライ・ラマとの対話』『がんばれ仏教!』(NHKブックス)など。(写真:大槻 純一、以下同

上田:なぜMIT(マサチューセッツ工科大学)がリベラルアーツ教育に力を注ぎ続けるのか。MITの文科系学部の先生はこう強調しました。

「大学というのは何かを学ぶ場所だけれども、その学んだことを生かすのは社会の中です。大学で電子工学や機械工学を学び、そこで得た知識でコンピュータや自動車を作るとしても、その製品は社会に存在し、人間に使われるわけです。ならば、作り手に回る理系の人間こそ、社会と人間のことを徹底的に知っていなければ、理解しなければ、コミュニケーションがとれなければダメです。だから『教養』を身につける必要があるのです」

池上:理系以外の世間の人は、電子工学や機械工学のことは知らないかもしれない。でも、仏教のことについては詳しいかもしれないし、シェイクスピアは読んでいるかもしれない。社会の基盤となるさまざまな教養の体系を知ると知らないとでは、ものづくりで具現化する製品の質も変わってくるでしょうし、また社会と技術のかかわり方も変わってきてしまうでしょう。そこで思い出したことがあります。

上田:何を、ですか?

池上:2011年3月11日の東日本大震災に伴う東京電力の原子力発電所事故です。東電と経済産業省や学者たちの原発のリスクに対する不備が指弾された際、図らずも明らかになったのが、理系の専門家が原発のリスクについて語るべき適切な言葉を持っていないことでした。世間とのずれが露呈してしまったともいえますね。

 専門的知識のない人たちに伝えられない。これはまさに伝える側の「教養」の問題でもあります。

上田:MITや東工大のような理系の専門大学を卒業して、技術者や学者として社会にアウトプットをするとき、世間一般よりも教養がなかったら、社会に対して責任のあるかたちで科学や技術の果実を還元できませんね。

池上:MITの先生は、「この大学も、最初からリベラルアーツ重視の教育をしていたわけではない」と話されていました。1960年代から70年代にかけては理系専門学校化が進み、リベラルアーツが軽視された。音楽教室が70年代にできたのも、リベラルアーツ教育の低迷に学内で危機感が生まれたからだ、ということでしたね。

上田:では、MITでは、どうやって具体的にリベラルアーツを教えているのか? 先生に訊きました。するとこんな答えが返ってきた。

「私たちが学生に教えるべきは、知識そのものではなく、学び続ける姿勢です」

 言い換えると、大学4年間で学ぶべきは、知識を暗記すること以上に、学ぶ姿勢であり、学び方――how to learnだというのです。

池上:たしかに。大学を出たら、自分で学ばなければいけませんね。

日本の政治家はなぜ「オフ・ザ・ウォール」できない?

上田:そうなんです。社会に出たら自ら学ばなければそこで成長は止まってしまう。社会に通用しないだけでなく、つまらない人間になってしまいます。そこで痛感したのですが、日本の大学教育には、そもそもこの「学ぶ姿勢」を教えるという側面が弱かったな、と。これは、今に始まった話ではなく、ずーっと昔から。

 なぜそう思うかというと、池上さんが以前教えてくださったエピソードが頭の中に残っていたからです。

池上:どの話でしょう?

上田:日本の政治家が海外の国際会議の会場やパーティでどうしているのか、という話です。

池上:ああ、あの話ですね。日本を代表して出席している政治家は、大概の場合、端の方にぽつんと座っていて、各国の代表とまったく会話をしていないんですね。パーティのときもそうです。

上田:英語ができないから、じゃないんですか?

池上:その側面もあるかもしれませんが、本質的には語学の問題じゃないですね。そもそも「会話」に加われないんです。なぜかというと、各国を代表してやってきた政治家たちと語るべき「コンテンツ」を持っていないから。言い換えれば「教養」がないんですね。企業トップでも同じようなことが起きるんです。自分の持ってきた仕事のプレゼン用コンテンツ以外に、会話の中身がない、というわけです。

上田:それは今に始まったわけじゃないですね。

池上:ええ。昔からです。かつて、日本の大学では今よりも教養教育を重視していたけれど、さきほど上田さんがおっしゃった「学び方――how to learn」については、ちゃんと教えてこなかった。だから大学までの教養しか頭にない。社会人になったときから成長が止まってしまう人が少なくないんですね。

 これは、私と同世代でも言える話だから、昨今の大学の実学志向や教養教育の軽視とは関係なく、ずっと日本にあった問題のような気がしますが。なぜなんでしょう?

上田:ひとつは大学における「学び」の制度の違いが根っこにあるかもしれません。日本の場合、東大に合格したら、大学院も東大、教鞭をとるのも東大、という具合に、東大に入った時点で自動的に道ができている。

 アメリカの場合は、たとえばどこかの州立大学に入ると、そこでむちゃくちゃ勉強すれば大学院に入るときに、たとえばスタンフォードとかハーバードまで上がっていける可能性があります。実際、多くの学生が大学院進学時に学校を変えています。

 だからたとえば、高校まで教育機会に恵まれなくても、なんとか州立大学くらいに入れば、そこで勉強をしてステップアップすることが可能なんですね。

池上:オバマ大統領もそうですよね。ハワイの高校から、有名とは言えないカリフォルニアの大学に入って、それで途中からハーバードです。

上田:つまりアメリカは「勉強すれば」ステップアップできる。もともと日本とアメリカでは昔から大学での学生の勉強量が全然違う。日本みたいに、人生で一番勉強をしたのは高校3年生の時、そこがピークで、大学では遊びましょうとなってしまうと、知的にステップアップはできませんよね。

 今回、アメリカの大学生がどれだけ勉強しているかを直接見ることはできませんでしたが、アメリカの大学ではご存じのように図書館は「24時間営業」です。あと、ものすごい量の宿題が出ます。

池上:そうですね。

上田:授業に出る前にはこれを読んでおけ、という「これ」がとんでもない分量の資料や専門書だったりする。私は2005年の1年間、スタンフォード大で教鞭をとりましたが、このときも学生たちにはものすごい量の資料を事前に読ませました。

池上:それはスタンフォードやハーバードやMITという優秀な学生が集まる学校に限っての話ではないんですよね。

上田:ええ、基本は同じだと聞いています。どこの大学でもたっぷり宿題が出ます。ただ大学によって、読ませる量が違って、ハーバードなら120ページ、あまり勉強のできない学生が多い大学だと20ページという具合に。いずれにしても、宿題の量が多いことには変わりありません。学生たちは毎晩半泣きになりながら読んでいるわけですね。

池上:昔から、日本では大学に入るまでが勉強、アメリカは入ってからが勉強と言われてきましたが、日本では授業のために予習のために本を読んでくる学生は皆無に近いでしょうね。そもそも大学の先生側が、そんな宿題を学生に出したりしません。

教師が講義していると学生が「いらつき出す」

上田:これはスタンフォードでの経験なのですが、学生が必死で課題の本や資料を読んでくる、ということは授業に対する準備ができているわけです。そうするとね、75分の授業で、半分以上私が一方的に講義をしていると、学生たちがイライラし始めるんです。

池上:どうしてですか?

上田:つまり、それだけ事前に資料を読ませてきているんだから、がんがん質問をさせろよと。75分授業で50分も私が講義をしていると、あからさまに学生たちの顔つきが「もういいかげんにしろよ」とおっかなくなってくる(笑)。「質問の時間ないぞっ」と。

池上:スタンフォードではどんな授業をやっていたんですか?

上田:「仏教は世界を変えることができるか」という授業です。スタンフォードの教典学者の教授と2人でタッグを組んで、20回ぐらいやりました。

池上:スタンフォードで「仏教は世界を変えることができるか」。面白い組み合わせです。その授業、受けてみたかったですね。

上田:アメリカのインテリの間では、想像以上に仏教に対する興味があるんですよ。例えば仏教思想を背景に現代的な反戦運動をやっている人がいたり。そこで授業では実際に、仏教思想で反戦運動をやっているアメリカ人をゲストとして呼んでみました。台湾系の修行道場を学生と訪ねてみたり、チベット仏教の僧侶もクラスに呼んでみたりとか。

上田:また、日本のお寺の公共性について、歴史的に見たときの機能を例に挙げて学生たちに講義したりもしましたね。お寺が持っている福祉的機能についてです。

 一方、僕の授業のパートナーである先生は教典学者だったので、「そもそも仏教には、社会を変えるという意図があるのか」と教典に当たってみたり、悪い者をどのように罰するのかについても、「ブッダは戒律を守らない弟子にどのように接していたのか」を起点に話をしたり、という具合に講義を進めていきました。

池上:学生たちのリアクションが気になりますね。講義するのが面白かったでしょう?

上田:ええ、実に面白かったです。授業をとっていた学生の中にはスタンフォードの理科系の学生も多かったのですが、事前の課題資料をちゃんと読んできて、文系の学生と同じように、ばんばん質問する。たとえば、日本では当たり前になっている仏教やお寺に関する慣習に潜む矛盾点をついてくるんですよ。

池上:え、例えば、どんな質問が?

上田:例えば、こうです。――仏教には5つの戒め、5戒というのがある、と習いました。それによれば、お坊さんは酒を飲んじゃいけない、結婚してはいけない、そう決まっているはずですよね。なのに、なぜ日本のお坊さんはお酒を飲み、結婚しているのか? 5つの戒めのうち、2つも破っている。坊主失格ではないですか?……と、こんな質問が飛んでくるわけです。

池上:あ、日本ではもう誰も突っ込まないところですね。上田先生は、どう切り返すんですか?

上田:そこで、まずは日本の仏教の実態を解説してあげるわけです。日本の仏教は、もはや在家仏教となっている。先祖信仰とも合体している。お墓参りなんかもそうですよね。

 ところが、もともとのブッダがいう仏教を調べても、先祖信仰なんかどこにもないんですよ。

 つまり、日本では、「日本の仏教」という独自の宗教になっている。「ご先祖を守る」と「仏教」が合体しているわけですから。

 その証明がお寺が墓を守る、という日本の仏教独自の構造ですね。檀家制度も、江戸時代に大衆がうっかりキリシタンにならないように村の構成員を把握するために生まれたもので、もとは仏教とは実は関係ない制度です。

池上:なるほど、そうなのですね。

日本の「仏教」はコミュニティ、米国では「個人」

上田:本来、仏教の教えと地域社会とはあまり関係がなかったんですね。けれども、日本の仏教には、檀家の集団というある種の共同体をつくり、それが地元のお寺を支える、という構造がある。

池上:お寺が村の中心になったりしますね。門前町のようなところも全国にある。

上田:宗教と村社会的な共同体の関係性って、実に面白いんですよ。たとえば、仏教という宗教の立ち位置は、アメリカでは日本とはまったく逆なのです。

池上:日本とは逆? どんな具合に、ですか。

上田:アメリカの中西部とかだと、西部劇の時代の昔から現代に至るまで、キリスト教の教会が街の中心にあります。街や村=共同体に住まう人たちは、日曜日は必ず教会に礼拝に行く。

池上:西部劇で必ず描かれるシーンですね。今もあまり変わりがないわけですね、中西部では。

上田:はい。大統領選挙で共和党が勝つような、南部や中西部といった、アメリカのこうした保守的な土地ですと、毎日曜日に教会に行かないような人は村=共同体の一員だとは認められない。つまり、キリスト教が共同体の中心にある。

池上:かつての日本の仏教とちょっと似ていますね。

上田:ところが、キリスト教を軸とした共同体的価値観に反旗を翻し、個人主義的に自分の救いや悟りというのを求めるアメリカ人が出てくる。すると、こうした人たちの中には、仏教へと歩み寄って個人で瞑想をしたりする、というケースが少なくないんです。

池上:なんと、アメリカでは仏教が個人主義と結びつくわけですか! たしかに日本とまるで逆ですね。

上田:そうなんです。これ、日本は日本で、アメリカと逆になるわけです。近代以前の日本では、共同体の中心に仏教があって、村の誰かが亡くなったりすると法事をお寺で皆が役割分担して行ったりする。その共同体行事に加わらない人間は、村八分にされたりすることもある。そんな、閉鎖的な共同体の真ん中にある仏教を嫌悪して、明治維新以降、日本では進歩的で個人主義的志向の知的階級が、キリスト教に帰依したりする。

池上:すごくよくわかります。その土地を支配する宗教は、共同体の中心に鎮座しますよね。イスラム世界に行けば、金曜日にモスクに行かなかい人がその地域で暮らすのは、やっぱりなかなか辛いでしょう。

上田:そうなんです。キリスト教だ、仏教だ、イスラム教だ、といっても、「どこで信仰するか」で、社会とのかかわり合い方がまったく異なってしまう。アメリカ人にとっては仏教が解放。日本人にとっては仏教から抜け出ることが解放――。しかし共同体の力が弱まり、個人が苦しみにさらされている日本において、仏教とお寺の存在が再び見直されていると、まあ、授業ではこんな話をしたりしていました。

池上:ぜひ東工大でも講義をお願いしたいお話ですね。

MITの学生は、ライティングとプレゼンをプロから教わる

池上:MITでびっくりしたのは、先生方が「MITを出た学生は文章は書けるし、プレゼンテーションがうまいんですよ」と力説していたことですね。で、その理由を聞くと、なんと、MITでは、学生向けにライティング、プレゼンテーションを教える専門家を30人も雇っている、というんです。

上田:あの話にはびっくりしました。

池上:アメリカでは、理系ばりばりの人間が文章も書けるし、プレゼンもうまい。日本では、理系出身というと、論文調の文章しか書けない、プレゼンなんかもってのほか、というイメージがありますが……。最初からうまいわけじゃなくて、ちゃんと大学できっちり教えているんですね。

上田:ここでMITのカリキュラムをざっと説明しましょう。大学生は卒業までに全部で32科目を取得しないとなりません。少なく感じますが、これは数え方の問題で、1科目が日本の4単位なので、全部で128単位です。で、そのうちの4分の1の8科目、32単位相当は、文系科目でなくてはならない。

池上:全単位のうち4分の1は必ず文系科目。日本の理系大学からするとずいぶん多いですよね。

上田:この文系科目には人類学とか哲学とか社会学などがあるわけですが、こうした文系科目をとるときに、コミュニケーションの授業がセットとなっている科目を必ず2つとらなければいけないんですね。それがライティングとプレゼンテーション、というわけです。

池上:もう少し詳しく解説しましょう。東工大での上田先生の教養科目の講義に例えていただきましょうか。

上田:私は東工大で文化人類学を教えています。東工大では、文化人類学をただ私が学生に教えるだけです。これがMITのやり方だと、同じ文化人類学の講義が3種類になります。1つめは普通の講義。2つめは、文化人類学とライティングがセットになった講義。3つめは、文化人類学とプレゼンテーションがセットになった講義です。必ずしもすべての科目で3種類があるというわけではないですが。


池上:つまり、学生は文化人類学の単位を取得しようとすると、(1)普通の講義、(2)ライティングというコミュニケーションがセットの講義、(3)プレゼンというコミュニケーションがセットの講義、この3通りからひとつを選ぶ、というわけですね。8科目の文系科目のうち、1つはライティング、1つはプレゼンがセットになった講義をとらなければ卒業できない、というわけですね。

上田:「ライティング」とセットの講義を選択した学生は、とにかくその科目について徹底的に作文を書かされるわけです。「プレゼン」とセットの講義を選択した学生は、毎週プレゼンをやらされる。では、学生が書いた作文や、学生が行うプレゼンを誰が評価し、誰が指導するのか。ここがMITのユニークなところですが、講義をする先生ではないんですね。それぞれコミュニケーション専門の講師の方がいらして、がんがん添削し、どんどん指導するんですね。

池上:つまり学問の指導と、プレゼンやライティングの指導はプロによる分業がひとつの授業の中でなされている、と。

上田:プロの指導だから、実に的確なわけです。教養を学者が教え、実技としてのライティングとプレゼンをプロが教える。アメリカの大学授業の厚みを感じました。まあ、私も東工大生にコミュニケーション力が欠けていることを察知し、講義の中で少人数のディスカッションなどを取り入れ、それが好評で学生からの授業評価が全学で一位になったりしましたが、やはりコミュニケーションの専門家ではないので、限界を感じることも多いわけで、そういうプロの講師の方と組めると助かりますね。

池上:ただ知識を習得するだけでなく、論評し、考えをプレゼンする技法も身につけるわけですものね。教養の授業でありながら、実学も織り込まれている。教養と実学が二項対立ではなく、むしろセットになっている。

上田:しかも文系科目のみならず、後期にとる専門科目、つまり機械工学や電子工学といった理系の授業の中にも、ライティングやプレゼンがセットになった科目がちゃんと用意されています。

池上:プレゼンやライティングは、余技でも文系科目の一部でもなく、MITを卒業した人すべてが持つべき「技術」なんだ、ということがカリキュラムで位置づけられている。プレゼンができなければ、ライティング=文章を適切に書けなければ、理系だろうが文系だろうが、社会の役には立たない。教養=リベラルアーツを非常に重視している一方で、この点においてはきわめて「実学的」なんですね。

上田:理系の授業でいうと、やはり3コースが各科目に用意されていて、電子工学を例にとると、1:電子工学を普通に教わる授業、2:電子工学について徹底的に作文や論文を書かされるライティングの授業、3:電子工学を全然知らない人に対してわかりやすく効果的にプレゼンできるようにするプレゼンの授業、の3つが選択できる。

池上:こちらも具体的にどう授業は進めるのか、MITの先生に訊いてきました。

上田:これは一例ですけれども、まず専門科目の先生が10分授業をやる。その後で、数人ごとの班を学生たちにつくらせ、授業の内容についてまとめさせる。次に、皆の前でプレゼンさせる。ここで、プレゼンテーションの先生が登場し、プレゼン方法について、厳しく指導をする。構成のここがおかしい、もっと声を大きくはきはきと、ここは説明が足りない、という具合にですね。

池上:あそこまで徹底的に授業で鍛えられれば、いやでも大学時代にプレゼンテーション能力も作文能力も高まりますね。リポートもこのカリキュラムのレベルで書き続けていれば、学者の道に進んだときにも論文を書きやすいはずです。また社会に出て、企業に勤めたときにも、専門技術を専門外の人に説明する機会は、開発部門が経営会議に出るときなどで必ず訪れます。そんなときに、MITで学んだプレゼン技術は大いに役立つでしょう。

上田:だからこそMITの先生たちは胸を張るわけです。うちの学生たちは卒業するときには「書ける人間」「しゃべれる人間」になっている、と。

スクールツアーでびっくり仰天

池上:それから、MITでは、学生たちがボランティアで見学客を案内する「スクールツアー」も人気でしたね。1日に何回か、学生が見学に来た外部の人たちにキャンパスを案内するんです。将来ここに入りたいと思っている学生や、あるいは観光客たちを連れて。私たちも案内してもらいました。

上田:で、このスクールツアーで紹介するMITの「コンテンツ」が実に面白い。なんといっても、学生たちの壮大な「いたずら」が展示してあったんですよね。

池上:MITの敷地内には、巨大なドーム状の建物があります。このドームのてっぺんに、学生たちが夜中にこっそりパトカーを乗っけてしまった。

 朝、学校に来たひとたちが、ドームを見上げると……仰天です。

上田:まさしく、仰天ですね。

池上:もちろん本物じゃなくて、中古車をパトカーっぽく塗装したものだったんですが、警察がヘリを飛ばし、地元新聞が駆けつける大騒ぎになった。

 このときの様子が、写真に残っていて、いたずらを仕掛けた張本人の学生たちによる「どうやってドームの上に車を持ち上げたのか」の図解といっしょに、MITの廊下に展示してあるわけです。それだけじゃなくって、いたずらに使われたパトカーのハリボテも、カフェテリアの天井近くに鎮座している。説明する学生が、さも自慢げなんですよね。どーだ、すごいだろ、と。



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック