都では、夜な夜な、反平家勢力が密会を繰り返していたようです。鹿谷は反平家勢力が一同に顔を合わせる場所でした。

 東山の鹿谷(ししのたに)というところは、うしろは三井寺に続き、堅固な要塞となっていました。鹿谷に俊寛(しゅんかん)僧都の別荘がありました。鹿谷の別荘には常日頃から仲間たちが集って、平家滅亡のはかりごとをめぐらしていました。ある夜に後白河法皇も鹿谷の別荘に御幸しました。故少納言であった入道信西(しんせい)の子息である静憲(じょうけん)法印も供をしました。その夜の鹿谷の酒宴でも平家滅亡が語られます。静憲法印が「ああ恐ろしい。多くの人の耳にもはいるかもしれぬ。今すぐにでも人が聞き知って、天下の大事となるやもしれん」といさめると、藤原成親は顔色を変えてさっと立ち上がりました。藤原成親が立ち上がったひょうしに狩衣の袖があたって瓶子(へいじ)がひっくり返りました。瓶子は徳利のことです。後白河法皇がそのさまを見て「あれは如何に」と問うと、藤原成親は「平氏(へいし)が倒れましてございます」と答えました。大いに笑い興じた後白河法皇は「者ども、こちらへ来て猿楽を舞え」とご満悦です。判官であった平康頼が進み出て「ああ、あまりに平氏が大いので酔ってしまいました」と言いはじめました。俊寛僧都が「さて、平氏をいかがいたそう」と受けます。西光法師が「ただ首を取るにはしかじ」と返します。西光法師は前にでて徳利の首を打ち砕き、御前から下がっていきました。静憲法印はあまりの恐ろしさにものも言えませんでした。

 さて、この企てに同心していた者は、近江中将の蓮浄(れんじょう)入道(俗名:成雅)、六勝寺の筆頭で白河天皇の建立となる法勝寺の執行俊寛、山城守の基兼、式部大夫であった雅綱、平康頼、判官の惟宗資行、武士では多田の庄の住人で蔵人の源行綱をはじめとして北面の武士たちが多く加担していました。

 法勝寺の俊寛僧都は、京極の大納言である源雅俊の孫で、仁和寺の中にある木寺の法印寛雅の息子です。祖父の源雅俊は、もともと弓矢を取る家柄ではありませんが、あまりに根性がまがった人物で、三条房門の通りと京極通りの交わる場所にある御所の前を人が通るのさえ邪魔しました。いつも中門の前にたたずみ、歯をくいしばって、いかめしい顔で往来をにらみつけています。このような恐ろしい人の孫なので、俊寛も、僧といえども、気性がはげしくて傲慢な人物でした。だからこのような企てに加わったようです。また、藤原成親は、源行綱を召して、「このたびはあなたを一方の大将と頼んでいる。成功のあかつきには、国司でも荘園でも望みのままに与えよう。まず、弓袋の料とて」と白布五十反を送っていました。

 御所を警護する北面の武士は上古にはありませんでした。白河院のときにはじめて置かれてから御所を警護する衛府の武士が多くなりました。幼少のころは今犬丸、千手丸と呼ばれていた為俊、盛重は、まれに見る利け者でした。鳥羽院のときには、季頼、季教親子が北面の武士として仕えて、諸事を伝達する際にも呼ばれるほどでした。このころの北面の武士たちはみな身の程をわきまえていたようです。しかし、今どきの北面の武士たちは、過分な振る舞いが目立ちます。公卿殿上人をものともしません。下北面から五位以上の上北面に昇進して、殿上の交わりを許される者も目立つようになりました。そんなご時世なので、自然とおごりが出て、とるにたらない謀反に加担するようになったようです。

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